2019年6月28日(金)、新潟大学附属図書館のライブラリーホールにて腐女子の心理学という何やら興味を惹かれるタイトルの講演が行われました。
行けたら行こうぐらいに思っていたのですが、行けたのでその模様をお伝えします。
はじめに
Twitter見てたら見当違いな稚拙な論を展開してる人がいてムカついてしまった…。
真面目に腐女子論批評したいなら講演参加者のツイートを基に意見すべきでないし、もちろん又聞きのこの記事を基にすべきでないと思うです…。
ネットの人がやんややんや言ってるだけならスルーするのですけど、これ新潟大学生が言ってるのかと思うと…。
ということで腐女子の心理学に対して匿名でやんややんや言えるスレを立てました。
上記リンクが開けない方はこちらからIDの発行を。
講演概要
冒頭に書いた通り6月28日(金)にライブラリーホールにて行われました。
時間は17:00~18:00の1時間の予定です。
会場の様子
思っていたよりも盛況で、9割程度の座席が埋まっていたように思います。
ライブラリーホールは260人収容なので、230人ぐらいでしょうか。
留学生を含む学生が主で、教授?一般の方?も若干いるという感じです。
配布レジュメ
A4サイズの片面刷りプリント5枚が配布されました。
そのうち4枚がメインレジュメで、横向きで2段組になったもの。
全ページに渡って文章の他にグラフや表が目立ちます。
1枚が腐女子度尺度とオタク度尺度と題されたもの。
アンケートのようになっていて、自分が腐女子に当たるのかオタクに当たるのかを診断できるものです。
こちらはWeb上で体験できるようにしてみたのでぜひお試し下さい!
自分が以下で言及される定義における腐女子やオタクにあたるのか知っておくと読みやすいかも知れません。
講演内容
17時から開始され、概ねレジュメに沿った説明が18時頃に終了、その後質疑応答の時間となりました。
自己紹介
まず山岡先生の自己紹介がありました。
山岡重行(やまおかしげゆき)先生は現在聖徳大学という千葉県の私立女子大学で講師をされています。
専門は社会心理学で、主に「少数派の意識と、多数派の少数派に対する差別意識」を研究されていました。
2008年にゼミの学生が「私は腐女子だから卒業論文で腐女子について書きたい」と言ったことから腐女子の研究も始められたとのこと。
導入として、2000年代前半辺りまではオタクは異常者扱いだったが、近年はオタク文化の裾野が広がってきたこともありネガティブなイメージは減っていることなんかもお話されていました。
オタク叩き側でなく良かったですね。
オタク・腐女子の定義
初めに、概念的定義と操作的定義に分けてそれぞれが定義されました。
概念的定義というのは例えば「地球とかがあるこの空間を“宇宙”と呼ぶ」みたいな感じで、じゃあどのくらいの高さからが宇宙なの?というのが分からないので「地上○km以上を宇宙と呼ぶ」みたいに明確に定義するのが操作的定義ですね。
オタクの概念的定義
アニメ・マンガ・ゲーム・特撮といったオタク系の趣味に熱中し多くの時間と資金と労力を投資する者
オタクの定義にまだ定義されてない「オタク系の趣味」と入れてしまって良いのか…?と思わなくもないですが。。
腐女子の概念的定義
BL嗜好を持つオタク女子
オタクの中でもBL嗜好を持つのが腐女子ということだそうです。
より明確に定義するための操作的定義は以下の通りです。
操作的定義
オタク度尺度と腐女子度尺度(山岡,2016)を用い、オタク度も腐女子度も高い者を腐女子、オタク度が高いが腐女子度が低い者をオタクと操作的に定義する。
ということでここで出てくるのが先程紹介した診断ですね。
上記診断では腐女子群、オタク群、耽美群、一般群の4つに分類されます。
が、実際に1,886人にアンケートを取ってみたところ腐女子群が全体の16.86%、オタク群が27.36%、一般群が54.35%、耽美群は僅か1.43%になったそうです。
耽美群はサンプルが少ないので以降の内容からは除外されます。
隙あらば自分語り
渡辺、オタク気質があるものと自認しています。が、この診断だと一般群に分類されます。
というのもアニメ・マンガ・ゲームを対象にしていないのでその辺の回答が全部1になるのですよね。
家庭教育の方針でそういうものにあまり触れて来ず、一人暮らし始めた今はSplatoonぐらいはゲームするけども、という感じ。アニメとかも有名なネタなら分かるけども見てはなく…。
例えば鉄道オタクやアイドルオタクは典型的なオタクに思えますが、この診断ではオタクに分類されないでしょう。
オタクの中のオタクを腐女子と定義する都合上、鉄道×鉄道腐女子が生まれにくいから鉄道オタクを外すにしても、ジャニーズオタクが発展して腐女子になることはあると思うのですが…。
この定義の前提の上では以後の仮説も分かりますが、定義の部分が検討の余地ありなのでは…?
そこ突っ込まれるのでは…?と思ってしまいました。
説明内容要約
以降、MISSION1~MISSION10に分けて腐女子とはどういうものなのかがアンケート結果のグラフ等が利用されながら解説されました。
全グラフ内容を説明すると講演の劣化コピーになってしまうので、ここでは結論のみを列挙することにします。
詳細が気になる方は著書を読みましょう。
1.腐女子の基本属性を明らかにせよ。
同人誌志向性、現実同性愛許容度、作品内同性愛許容度、変態性認識度なんかの指標を使いつつ、大体腐女子群>オタク群>一般群の順で高いねみたいな説明。
2.「オタクはコミュ障」の真偽を明らかにせよ。
話しかけスキル平均点が一般群よりも低いことは認められるが、特性シャイネス平均点や社会的スキルは3群で差がなく、オタクや腐女子が他者とコミュニケーションをとることが苦手であるとは言えない、という説明。
3.「オタクはブサイク」の真偽を明らかにせよ。
外見の不満平均点も体型不満度も3群に差はなく、オタクや腐女子がブサイクであるとは言えない、という説明。
ちなみにあくまでこれは外見に対する自己評価によるものです。
この点について質疑の時間に「自己評価と他者評価は違うのでは?」という質問がありました。
これに対しての回答は「回答者は大学生なので、大学に来れる(人前に出れる)程度の身だしなみは押さえられているはず」「厳密にやろうと思えば写真撮って第三者に『この人はブサイクですか?』とできなくはないが現実的ではない」「自己評定の研究を否定すると今の心理学は成り立たない」という感じでした。
心理学のセオリーは分かりませんが、渡辺が以前心理実験に協力した時も自己評定の回答があり、恐らくはそれがそのまま渡辺の性質として扱われるのだろうと思いますので、それはそういうものなのでしょう。
4.腐女子とオタクの恋愛に対する接近ー回避の葛藤を明らかにせよ。
「恋愛をしたいと思う」の回答に差がないながら「自分には熱中しているものがあるから恋人が欲しいとは思わない」の回答が一般群と比べ腐女子群やオタク群では高く出ていることから、恋愛に対して接近ー回避の葛藤状況にあるという説明。
「恋愛したいにもかかわらず、自分の魅力の低さや出会いの場がないことを不安に思い、『趣味に力を入れたいし恋愛は面倒だから恋人は欲しくない』という態度を取る、認知的不協和という解釈ができる」とのこと。
個人が持つ二つの認知の間に不一致、不調和が生じること。その際その不一致を解消あるいは低減しようとして認知や態度に変化が起こる。
認知的不協和とは – コトバンクより
5.「腐女子は恋人も要らないし結婚もしたくない」の真偽を明らかにせよ。
オタクや腐女子が恋人や配偶者に求めるものは自分の趣味の承認であり、腐女子が結婚したくないのは「自分の趣味を否定する相手」である、という説明。
6.「マンガの二次創作に興味を持つ女オタク」は腐女子なのか明らかにせよ。
そうとは言えない、という説明。
7.「腐女子=フェミニスト論」の真偽を明らかにせよ。
男性優位点では有意な主効果はないのでそうとは言えない、という説明。
8.オタクや腐女子は誰と恋愛したら上手くいくのか明らかにせよ。
同系統の作品にはまるオタクとオタク、オタクと腐女子がベストマッチ、という説明。
9.腐女子誕生の謎を明らかにせよ。
少女マンガで恋愛漫画の文法を学習→少年ジャンプを読む→少女マンガの文法では少年マンガの友情関係やライバル関係が親密な関係=恋愛関係に見え、少年マンガをパロディーとして楽しむ→パロディーでなく真剣に恋愛関係を妄想する→腐女子誕生、というプロセスの説明。
「腐女子とは、少女マンガを母、少年マンガを父として生まれた『オタクの超進化形』です」という言葉も。
ただ現在では腐女子の存在も認知されてきており他にも色々な入口があるので、あくまで上記は「最初の腐女子」が誕生したプロセスだと説明されています。
BLの前に言われていたやおい、さらにその前のアニパロ(アニメのパロディー)から腐女子が生まれたのではとのこと。
10.腐女子とオタクの幸福を明らかにせよ。
オタクのイメージは昔ほどネガティブでなくなったが、決してポジティブではない。
ならなぜオタク趣味に熱中する?→幸せだからでしょ、というところから。
QOLでは3群に差はなかった。
ただ受動的幸福感では優位な差が出たため、腐女子はコンテンツを貪欲に消費することで受動的幸福感と生きがい感を強く感じている、という説明。
自分から何かするのでなく、他者の作ったコンテンツ(マンガアニメだけでなく、芸術やスポーツなんかも含む)から強く幸福感を感じやすいのがオタクや腐女子。
さらに腐女子はコンテンツをオタクとして普通に楽しむだけでなく、BL変換して楽しむことができる。
北田先生批判
さて、講演の内容をまとめると上記のようになるわけですが、実際に講演に参加した方は明らかに抜けている箇所があることにお気付きかと思います。
それが北田先生批判です。
北田批判は単純に要らなかったですね。話題に出されなきゃこっちは北田の主張なんて知らないので。
— 渡辺和希 (@watatanabe) 2019年6月28日
自分の考えのの正当性を主張するのにあそこまで感情的に他者を批判するのはアカデミックな場ではどうなの…
渡辺はめちゃくちゃやりますけど。
講演内容をまとめるにあたってノイズになると判断したので意図的に削りました。
これは別枠でまとめておきましょう。
発端
まず山岡先生が2016年6月に腐女子の心理学という本を出版します。
その後2017年3月に東京大学で教授をされている北田暁大先生が社会にとって趣味とは何かという本を出版されました。
この本の中で山岡先生の腐女子論を名指しで批判していたそうです。
それに対して2019年2月に山岡先生が腐女子の心理学2を出版して反論する、という流れみたいです。
北田先生は社会学が専門とのことで、レジュメでは社会学北田と書かれています。
MISSION1~10に加えて「社会学北田の批判」と題された章が2つ、「北田の研究」と題された章が2つあります。
ちょっと入り組んで分かりにくいので、山岡先生の主張は冒頭に●赤丸、北田先生の主張は●青丸を付けますね。
社会学北田の批判①
●山岡先生のオタクの定義はおかしい。
北田の研究その1 オタク尺度
●独自のオタク尺度を用いる方法でオタクを定義した。
●北田先生の定義ではオタクの友達がいる=オタクとしている。
オタクの友達がいるからオタクになるのでなく、オタクだからオタクの友達ができる。
社会学北田の批判②
MISSION4に対する批判です。
●認知的不協和の取り扱いは実に面倒で、分析者が前提とする仮説に合わせて解釈してしまう。
恋人が欲しいが作ろうとしないというのはまったく同意することのできない推論で、端的に彼らは「恋人はいらない」のである。
●趣味に打ち込むために恋人も結婚も不要、というのは不協和どころかごく自然なことである。
●「恋愛がしたいと思う」というアンケート項目で3群に差がなかったことを無視している。
北田の研究その2 「腐女子」
●マンガの二次創作に興味があるオタク度が高い女性≒腐女子
●二次創作に興味があるから二次創作をしているわけではないし、BLに興味があるかどうかが抜けている。
この反論の根拠としてのMISSION6「『マンガの二次創作に興味を持つ女オタク』は腐女子なのか明らかにせよ。」ですね。
北田(2017)の主張
これはMISSION7「『腐女子=フェミニスト論』の真偽を明らかにせよ。」に付随する形です。
●腐女子は現実の対異性関係に慣れておらずそこから逃避する人たちではない。逆に腐女子こそもっとも現行社会におけるセクシュアリティ意識に敏感なのであり、その対極にあるのが男性オタクである。
●「BLはフェミニズムである」という議論はどこまでも正しいように思える。
●腐女子は男性中心的な世界観に意義を申し立てている。
●北田先生が論の根拠として提示しているグラフでは各群の人数、平均値や標準偏差などの不可欠な数値を明記しておらず、標準得点のグラフの一部を示すのみである。
●ジェンダー意識関連の質問で男女オタクのプラスマイナスが逆になると主張しているが、それは平均からのプラスマイナスであり、統計的な有意差は認められていない。
所感
渡辺の所感です。
講演を聞く限りでは北田先生批判は妥当な主張のように思えます。
山岡先生の主張内容はデータに基づいており、それに対する北田先生の主張を裏付けるデータは不備があるのが確かなように思えるからです。
(あくまで片側の意見を聞いて、ですけどね)
ただ山岡先生が北田先生の主張を否定する時に「うちのゼミの学生に聞いたら『北田はなんでそんなこと言ってるんだ、バカだ』と言っていた」と度々言われていました。
いや、そりゃ山岡先生のゼミで講義を受けて山岡先生の主張を日々聞いていればそうなるでしょうに…。
そうでなくともわざわざ「山岡先生は間違ってます、北田先生が正しいです」とは言わないでしょう。
せっかくなので反論はすべてデータに基づくもので一貫して頂きたいものです。
2019年6月30日追記
北田先生ご本人からコメントを頂きました。
興味があればページ最下部のコメント欄をご覧ください。
また上記「 講演を聞く限りでは北田先生批判は妥当な主張のように思えます。山岡先生の主張内容はデータに基づいており、それに対する北田先生の主張を裏付けるデータは不備があるのが確かなように思えるからです。 」という記述は「講演を聞いて渡辺はそう感じた」ことを表しているのであり、直ちに「山岡先生が正しく北田先生は誤りである」という意味でないことを改めて強調させていただきます。
両者の主張内容が知りたい方はお二人の著書や、下に示す山岡先生の発言がまとめられたTogetterや、コメント欄で北田先生が紹介しているリンク先等をご覧ください。
山岡先生の宣伝
講演の終わりに、TwitterとTogetterのことを言及されていましたね。
↑こちらが山岡先生のTwitterアカウント。
↑腐女子の心理学2のPRも兼ねて?グラフ等が用いられて今回の講演と似た内容が展開されています。
↑北田先生批判はこれが明快そうです。
↑こちらは北田先生の主張の批判でなく、北田先生の研究体制に対する批判。
おわりに
渡辺の感想としてはこんな感じですね。
あ、質問おじさんというのは質疑応答の時間に1人で4つ(10分以上)質問した方のことです。
講演の内容としては「オタク、世間で言われてるほど悪くないよね!」と「北田クソ!」になってしまっていて、肝心の腐女子についてはあまり聞けなかったなと。
要は若干期待外れでありました。
チラシの煽り文見てくださいよ、「BL・ジェンダー・フェミニズム」「腐女子とは誰か、その実像が明らかになる!」ですってよ。
もうちょい腐女子についてのお話が聞きたかったな、という感じです。
そのへんは著書を読んでくれということでしょうか。
蛇足
新大生の感想ツイートのうち一番面白かったの(鍵垢だけど勝手に)載せます。
この話の流れだと北田と山岡でCP出来てしまう………
腐女子逞しいかよ…
コメント
お疲れ様です。北田です。
山岡先生の論点の多くははすでになぜかamazonカスタマーレビューのM1さんというひとの主張のなかで提示されており(別人でしょうが)、それには私は丁寧に答えています(https://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/f58cb9ba16bdcc5c87f35adca22a95d9)。いまはカスタマーズレビューから削除されたようですが(たぶん同一人物の複数書き込みだったのでしょう)、他にも4,5人に対して、誠実に回答させていただきました(なぜかこちらからの問いには答えてくれないのですが)。また上記https://togetter.com/li/1332102での批判については、コメント欄をご覧ください。
わたしに瑕疵がないとは申しませんし、反省修正すべきところはいたしますが、それ以前に山岡氏は有意性の統計学的理解、大数の法則の数学的意味をかなり独創的に理解されており、また重回帰分析における統制変数の意味もあまり関心がないようです。この点は版元が心理学の専門出版である福村であるとすると、出版社の責任にも及ぶかなり深刻な統計学的な問題です。
また、彼が行っているのは実験的方法ではなく、社会調査なので、サンプリングの問題を抜きにしては有意性がどうこういえないことはいうまでもありません。その他にも山ほど統計学的な問題を見つけましたので、適切な対応を準備しているところです。いくら説明を繰り返し、問題点を指摘しても、そこはスルーされ、持論が繰り返され、方々で「データの捏造」とまでいわれれば仕方がありません。標準得点のグラフ化については「標準得点をそのままグラフ化すると劇的に見えてしまうので注意が必要」と本文で書いており、さらに直後に多重対応分析にて数学的距離を示しています。
どうぞご講演での山岡重行先生の言葉をそのまま記すのではなく、拙稿でどういう手続き・記述がなされており、山岡先生がどこをスルーしているかをご検討ください。
くり返しますが、私に反省すべき点は多々ありますが、山岡先生のネットでの人格的な攻撃についてはもう、学問的批判という域を超えているように思います。
いずれ何らかの形で、まとまった学問的(および研究倫理的)を公開いたします。公正かつ批判的な形でのコミットメントを切望いたします。
追記です。もちろん実験的手法でもサンプリングは問われます。しかしその扱いは社会調査とは異なります。山岡先生がされているのは明確に社会調査です。p値を示したとしてもそれが統計学的になにを意味しているのかは、実はそれほど明らかではありません(少なくとも私であれば、スノーボウル的に集めた作為抽出のデータで有意差を云々する場合には相当慎重にいたします)。そうしたことがけっして小さな問題ではないことをご理解いただけると幸いです。
反論および公的書類は準備中ですが、ご参考までにごく一部を紹介しておきます(本一冊にはなる書類であり、山岡先生の議論を徹底的に検討しています)。統計的検定について慎重にご検討いただけると幸いです。
このような議論があることを踏まえて、「3分でわかる!」のような流布が適切かどうかご判断ください。ご質問があれば、時間の調整は必要ですが、可能な限り対応させていただきます。ただその場合でも、上記のリンク先をまずはご覧ください。同じことの繰り返しでいささか参っているのも事実ですので。
●統計的検定に関する議論:山岡(2019)での統計的検定に関する説明
山岡(2019,p.173)では、以下のような独特な説明が見られる。
「データ数が大きくなればなるほど、大数の法則により理論的確率と統計的確率が近づき、誤差ではなく有意差が出現しやすくなる。人間の場合は、人数が増えるほど誤差を生み出す様々な要因が相殺されて、平均値に対する影響力を失っていくのである。」(山岡 2019,p.173)
私の知識では、上記の文章で何を言っているのか分からなかった。相手方は、統計的検定をかなり独特に理解していると思われる。
●統計的検定に関する議論:山岡(2019)での方針と米国統計学会p値声明との相違点
まず、山岡(2019,p.173)では次のように「有意水準」が説明されている。
「「有意な結果」とは有意水準5%未満のことである。ある結果が条件以外の誤差を生み出す要因によって偶然生じる可能性は5%未満であるから、今回の結果は偶然ではないと判断するのである。当然、このある結果が偶然生じる可能性=有意水準=危険率はゼロに近いほど、この結果は偶然ではなく、ある条件の違いによって生じたと確信を持って主張できる。これは社会科学だけではなく自然科学にも共通する科学のルールである。」(山岡 2019,p.173)
米国統計学会のp値声明(佐藤訳 2017,p.3;Wasserstein and Lazar 2016,p.131)では次のように注意が促されている。
「2. P値は、調べている仮説が正しい確率や、データが偶然のみでえられた確率を測るものではない。
研究者は、しばしば P値を帰無仮説が正しいという記述や、偶然の変動でデータが観察される確率に変えたがるが、P値はそのどちらでもない。P 値は仮説やその計算の背後にある仮定に基づいたデータについての記述であり、仮説や背後にある仮定自身についての記述ではない。」(佐藤訳 2017,p.3)
山岡(2019,p.173)の「ある結果が偶然生じる可能性」が「有意水準」(p値のことか?)であるという説明は、よくある誤解である。(ただし、山岡(2019,p.173)では有意水準とp値の区別もしていないようである。この誤解は少し珍しいと思う。)
ちなみに、「これは社会科学だけではなく自然科学にも共通する科学のルールである」(山岡 2019,p.173)と述べているが、すべての科学分野で統計的検定が使われているわけではないし、すべての科学分野で伝統的に5%基準が使われているわけでもない。また、よくある誤解ではあるものの、世の中のみんなが相手方のように統計的検定を誤解しているわけでもない。
また、山岡(2019,p.72)では統計的検定について以下のように述べられている。
「なぜ統計分析を行うのだろうか。その目的の1つは「事実認定」である。いくつかの平均値に差があると認定して良いのか、いくつかの変数の間に何らかの関連があると認定して良いのか、それを判断するために統計分析を行うのである。例えば、平均値の違いが条件の違いによって生じた統計学的に意味のある差(有意差)なのか、偶然生じた誤差なのかを判断するのである。
誤差と判断された場合、見かけ上の数字の違いがあっても「差がある」と主張してはいけない。それは自然科学でも社会科学でも共通のルールである。共通のルールに基づいているから学問領域が異なっているから学問領域が異なっても、少なくとも事実認定に関しては判断を共有できるのである。誤差でしかないものを「差がある」と主張するということは、ないものを「ある」と主張することである。ないものをあると主張することを捏造と呼ぶ。データの盗用や結果の改ざんと並んで捏造は研究者の倫理としてやってはいけないことである。研究倫理を守ることも科学のルールである。」(山岡 2019,p.72)
まず、有意でない場合に「偶然生じた誤差」と判断することは、前述の通り、統計的検定においてよくある誤解である。これは先ほど説明したのでもう触れない。
山岡(2019)を読む限り、「誤差と判断」するのは、有意水準5%を閾値として判断しているようである。
研究者として上記引用のような信念を持つことは自由であるが、米国統計学会のp値声明(Wasserstein and Lazar 2016,佐藤訳 2017)で危惧されていることをそのまま体現してしまっているように思われる。米国統計学会のp値声明では、3番目の項目にて以下のように提案している(佐藤訳 2017,p.2;Wasserstein and Lazar 2016,p.131)。
「3. 科学的な結論や、ビジネス、政策における決定は、P値がある値(訳注:有意水準)を超えたかどうかにのみ基づくべきではない。
科学的な主張や結論を正当化するために、データ解析や科学的推論を機械的で明白なルール(「P≤0.05」といった」)に貶めるようなやり方は、誤った思いこみと貧弱な意思決定につながりかねない。二分割された一方の側で、結論が直ちに「真実」となったり、他方の側で「誤り」となったりすることはありえない。」(佐藤訳 2017,p.2)
私個人としては、研究者個人が自分のなかでの「事実認定」の基準として統計的検定を用いても別に構わないと思う。しかし、「事実認定」の基準として統計的検定を用いることは米国統計学会のp値声明には沿っていない。
統計的検定に関して、現在においても必ずしも統一した見解があるわけではない。米国統計学会のp値声明が出される前においても、入門書や教科書などで、Fisher流有意性検定とNeyman流仮説検定を分けて説明されることはあった(たとえば、大久保・岡田(2012)のpp.21-29)。この両者を区別して考えることは、統計的検定の誤用を避けるうえで重要だと私は考える。
ただし、同時に、Fisher流有意性検定とNeyman流仮説検定の区別は教科書や入門書で言われているほど、単純に区別できるものでないと私は見ている。Fisherは自分自身が5%閾値の普及に大きく貢献したのに、晩年になりp値に対して閾値を設けることを非常に激しく非難するようになった(Lehmann 2011, pp.51-55)、Neyman自身が有意性検定と仮説検定を区別することに疑問を呈していたこともあった(Neyman 1976)、などの複雑な変遷もあり、入門書や教科書などで説明されているように、Fisher流有意性検定とNeyman流仮説検定を簡潔に区別できるものではないと私は考える。
しかし、私なりに劇画化して両者の違いを際立たせると、Neyman流仮説検定では行動を決定するのに仮説検定が使えるという立場であろう。このNeyman流仮説検定では、そのような強い主張を行うために、実験や調査を行う前に検出力を求め、十分な検出力が得られる標本サイズを確保することを必要とする。一方、Fisher流有意性検定では、有意な結果が得られたときは、その得られた実験データや調査データが自分の主張を例証する証拠の1つとみなしている、と考える。Fisher流有意性検定での結論は、得られたデータに対する言及であることに注意を要する。Fisher流有意性検定では、データが1つの証拠であることが示されたとしても、そのことで「差がある」ことが「事実認定」されるわけではない。以上が私なりにまとめた、Fisher流有意性検定とNeyman流仮説検定の違いである。
山岡(2016)や山岡(2019)は、標本サイズ設計などはまったく行っていないのに、結果の解釈だけはNeyman流仮説検定に従っていると言えよう。つまり、都合のいい部分だけを切り出して統計的検定を利用していると私には思われる。
諸事慎重にご検討のうえ、「講演を聞く限りでは北田先生批判は妥当な主張のように思えます。
山岡先生の主張内容はデータに基づいており、それに対する北田先生の主張を裏付けるデータは不備があるのが確かなように思えるからです。」という渡辺様のご見解の成否についてのご見解をいただけると幸いです。
なにしろ万人がみることのできるネットですので。
また山岡氏は北田の記述に「人数、平均値、標準偏差が記されていない」とお話しされたようですが、論文の地の文も抑えたうえでのご批判なのか否か、また【ご自身、山岡(2016)や山岡(2019)では平均しかプロットされておらず、±標準偏差の情報が記されていない箇所がある】ことについてはお話しになったのでしょうか?
また「データの数が少ない」とはどういう意味でおっしゃったのでしょうか。まさかサンプルサイズの話ではないでしょう(サンプリングに興味がないようなので)。サンプリングの話をなしに「数が多ければそのほうがいい」というのはおおよそ標準的な統計の理解とは思えないので、さすがにそこまで素朴な間違いはしていないと思いますが。
標準得点のグラフ+多重対応分析による分析の頑強性の確認については話していましたか? 牧田さんの内容分析を踏まえた分析について論じられていましたか?
これらの情報がない場合、それはかなり一方的なご主張と言わざるをえません。
論点は山岡氏が実行している分散分析についての疑問にも及びます。しかしそのはるか前方の話を山岡氏がどう「理解」されているのか、疑念をぬぐえません。
研究者である以上、私も批判を受けることは当然のことであり、正すべき点はただしてこそ学術共同体に寄与しうるものと思っております。しかしその批判なるものが、かなり怪しげな方法論(統計的分析や理由分析)に基づいていて、しかも「データ、結果の捏造」「改竄」「隠蔽」「いんちき」「妄想」「反証不可能」「疑似科学」「でっちあげ」「誘導」「偽装」「いいくるめる」「馬鹿(引用の体裁)」「頭弱い(引用の体裁)」「みせかけ」「中身がない」「悪質な確信犯」「手口」「仮説と結論は同義」「感情的な反発」「誠実な研究であることを装う」「調査結果を歪め」と言いたい放題言われるならば、もはやそれは学術的な対応では限界があるだろうと考え、研究倫理も含めて粛々と反論書を作成しておりましたが、明確な統計的知識の誤用が拡散されている状況は、私の名誉という文脈を超えて深刻であると判断いたしました。手続き的にすべてを提示するわけにはいきませんが(それはしかるべき公正な機関で検討していただきます)、誤解と誤読と誤認が拡散していく状況を看過するのは難しく、書き込みをさせていただきました。ご質問をいただければ、それに誠実に回答する形で説明責任を果たしてまいりたいと思います。
北田先生
コメントありがとうございます。
山岡先生にはもしかしたらお読みいただけるだろうか、とは思っていましたが北田先生にお読みいただけるとは思っておらず驚いております。
複数に渡ってコメント頂いていますが、個別に返信すると枝が分かれてしまい可読性が悪いと思いますので一括でご返信させていただきます。
ご紹介いただいた以下の記事を拝見しました。
https://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/7a8e5e643acbb35bffcefb104dd25e72
https://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/f58cb9ba16bdcc5c87f35adca22a95d9
https://togetter.com/li/1332102
3つ目に関してはコメント欄の「はるまこ!(@harumacos)」が北田先生のアカウントであり、山岡先生や上2つの記事で言及されている内容への回答であることを理解しました。
まず本記事の意義についてご説明させていただきます。
本記事は新潟大学において山岡先生の講演が行われたこと、そこで山岡先生が話されたことを伝えるものです。
あくまで山岡先生のお話を伝えているのであり、その内容が学術的に正しいのか否かは問題としておりません。
極端な話「カラスは白い」とお話があれば「カラスは白いと言っていた」と書きます。
「カラスは白い」という内容と、「カラスは白いと言っていた」に差があることをご理解いただきたいです。
その上で、講演で話された内容の真偽については記述を差し控えさせていただきます。
私は一学生であり、心理学・社会学・統計学の専門家ではないためです。
そのような立場で個人の所感の域を越えて真偽を断言することはできないと考えます。
>ご講演での山岡重行先生の言葉をそのまま記すのではなく、拙稿でどういう手続き・記述がなされており、山岡先生がどこをスルーしているかをご検討ください。(1コメント目より)
上記の理由により控えさせていただきます。
この記事の内容は山岡先生の主張や北田先生の主張が正しいかどうかでなく、山岡先生が6月28日の講演でどう話したかを記したものです。
>山岡先生のネットでの人格的な攻撃についてはもう、学問的批判という域を超えているように思います。(1コメント目より)
同意致します。
「バカだ」などという言葉は今回の講演やアカデミックな場に不適だと思います。
>「3分でわかる!」のような流布が適切かどうかご判断ください。(3コメント目より)
不適切でしたので該当文言をタイトルから削除致しました。
より広い読者層に興味を持ってもらおうと付けたものでしたが、山岡先生自身がそのような表現をされているわけではないことと、発展途中の学問に対する態度として不誠実であると判断したためです。
>山岡(2019)での統計的検定に関する説明(3コメント目より)
浅学ではありますが、引用された山岡先生の記述は大数の法則の説明として理解できるものでした。
唯一「有意差が出現しやすくなる」というのは分かりませんでしたが、「(差があれば)差が分かりやすくなる」という意味と解釈できました。
>山岡(2019)での方針と米国統計学会p値声明との相違点(3コメント目より)
p値の5%を基準に有意水準かどうかを判断する考え、それは誤解であるとする考えの2つがあることを理解致しました。
引用された山岡先生の説明は初学者向けに簡略化されている印象を、米国統計学会のp値声明は従来の統計学とは異なり新説的である印象を受けました。
私自身は5%を閾値として操作的に有意水準を判断することに一定の意義はあるように感じます。
統計学の世界でp値声明がどれだけ普及しているものかは分かりませんが、少なくとも現在の統計学ではこれを理由に山岡先生の説明が誤りとなるものではないと思います。
とはいえこの立場の違いが北田先生と山岡先生が互いの示すデータの誤りを指摘する原因の一つになっているのでないかと感じました。
>渡辺様のご見解の成否についてのご見解をいただけると幸いです。(4コメント目より)
引用いただいた文は講演を聞いての私の印象を述べたものです。講演を聞いてそのように感じたのは純然たる事実ですので、記載が誤りであるとは考えません。
とはいえこれは北田先生のご批判に不備があるとするものではありません。
例えば山岡先生が北田先生の主張を捻じ曲げて講演でお話された可能性もありますが、山岡先生の主張がデータに基づいているのか否か、一方で北田先生のデータに不備があるのか否かは不明ながら、「私が講演を聞いてそのように感じた」ことは間違いなく事実です。
この点について、「(あくまで片側の意見を聞いて、ですけどね)」と記載しておりましたが北田先生のご意見も伺えましたので、コメント欄に北田先生よりコメントがあったことも加えさせていただきます。
>また【ご自身、山岡(2016)や山岡(2019)では平均しかプロットされておらず、±標準偏差の情報が記されていない箇所がある】ことについてはお話しになったのでしょうか?(5コメント目より)
話されていません。
>「データの数が少ない」とはどういう意味でおっしゃったのでしょうか。(5コメント目より)
本人でないので発言の意図は分かりかねますが、録音を聞き返しより詳細に記述致します。
「耽美群は1.43%、調査によっては出てこないこともある。一番多く出てきたときでも2%ちょい。
なので他の3つのグループと比較するには人数が少なすぎ、比較対象にならない。
よって耽美群は分析から除外して、腐女子とオタクと一般人の比較という形で話をする」
「分析から除外」するのはいささか乱暴に感じましたが、1.43%を統計の世界でどのように扱うのか分からないので何とも言えません。
>標準得点のグラフ+多重対応分析による分析の頑強性の確認については話していましたか? 牧田さんの内容分析を踏まえた分析について論じられていましたか?(5コメント目より)
話されていません。
とはいえ今回の講演は1時間という限られた時間でしたので、全てを漏れなく話すことはできないのではないかと思います。
>明確な統計的知識の誤用が拡散されている状況(6コメント目)
本記事の「はじめに」の末尾部分、「北田先生批判」の始めの部分、同「所感」の部分にて注意書きをしておりましたが、より強調するために目次の前部分に新たに注意書きを加えました。
最後に、このコメントは一読者への返信として投稿するものです。
北田先生と学術的な真偽について議論したいものでなく、また記事本文と同様に山岡先生の論を肯定・否定するものでも北田先生の論を肯定・否定するものでもございません。
オタクや腐女子を題材とした分野ということで、いわゆる“おカタい”学問とは違い多少の興味は惹かれております。
まだ定説なども固まっていないだけに様々な仮説が出てくるものと思いますが、北田先生の益々のご活躍をお祈り申し上げます
(読者の方へ)
掲載当時の内容は以下URLで閲覧できますので、修正部分を見比べていただくことが可能です。
http://web.archive.org/web/20190630101855/https://shindai.watatanabe.com/fujoshi-psychology-lecture-report/
一学生の趣味の域でしかないブログ内で大の大人が自らの優位さを競っている様、非常に興味深く、また、ほとんどコントのようなやりとりに笑ってしまいました。
学問は揉んで揉まれてこそだと思いますし、単純におもしろいので、今回議題になった”オタク”的な言葉でいうなら…「もっとやれwww」
いいぞ、もっとやれ
渡辺様、ご返信ありがとうございました。大数の法則や有意性についてはご説明させていただきたいところですが、趣意は承知しました。河岸を変えます。時間のかかる作業お疲れさまでした(まる、まこはうちの猫の名前で『Free!』由来です)。
菅田将暉さん、なにがどうコント的ななのか意味が分かりませんが、そもそもこういう状況にはしかるべき媒体で対応すべきと思っていたところ、山岡重行氏の誤認識、統計学的に問題のある認識が一般の学生に拡散していくことに強い懸念をもってこのような対応をいたしました。ちゃんと別の機会を用意しますよ。 「いいぞもっとやれ」ってオタク言葉だったんですか? 2ちゃん用語だと思って愛用しておりました。
匿名さん、「だが断わる(この場では)」
やっぱり大数の法則と有意性の話だけはこの場で補足しておきますね。
「大数の法則」ですが、念のため、何度も読みましたが、やはり私には意味が分かりませんでした。意味が分からないのは私のほうが何かしらの誤解や誤読をしているはずです。なぜ意味が分からないのかを説明します。まず「大数の法則により理論的確率と統計的確率が近づき」という点から分かりませんでした。とりあえず、(大数の法則とは違うのですが)母分布関数と経験分布関数が近づくという意味として読んだとしても、次の「誤差ではなく有意差が出現しやすくなる」の意味が分かりません。さらに「人間の場合は、人数が増えるほど誤差を生み出す様々な要因が相殺されて」においては、人間における何が「誤差」なのかが分からなくなりました(ケトレーの平均人のように、人間には何かしらの真値があってその周りに誤差があるという解釈なのでしょうか?)。いずれにしても、「大数の法則」に対する解釈は独特だと私は思います。
「●統計的検定に関する議論:山岡(2019)での方針と米国統計学会p値声明との相違点」において、問題としているのは1点ではなくて、主に2点ありました。
1. p値(山岡(2019, p.173)では「有意水準」と呼ばれていると思われます)の解釈がおかしいこと。
2. 5%などを閾値にして白黒の判別を付けることは、米国統計学会のp値声明には沿っていないこと。
1に関しては、山岡(2019, p.173)は誤解をしているという指摘でした。こちらの誤解については、多くの人がそう誤解しているのだから誤解したままでも別に構わないとは思いません。
2に関しては、「研究者として上記引用のような信念を持つことは自由であるが、」や「私個人としては、研究者個人が自分のなかでの「事実認定」の基準として統計的検定を用いても別に構わないと思う。」と一応、断ったつもりでした。また、Fisher流有意性検定とNeyman流仮説検定の2つの考え方があることを示し、必ずしも統一した考えがないことを申し上げたつもりでした。5%を閾値にして白黒を付ける考えがあることは了承しています。私がここで強調したかったのは、5%を閾値にして白黒を付ける考えが、「これは社会科学だけではなく自然科学にも共通する科学のルールである」というわけではない(むしろ米国統計学会のp値声明では否定されている)という点でした。
繰り返しの引用となりますが、上記における1と2が合わさって、以下のような解釈となると、上記の理由により「間違っている」と私は思います。
「「有意な結果」とは有意水準5%未満のことである。ある結果が条件以外の誤差を生み出す要因によって偶然生じる可能性は5%未満であるから、今回の結果は偶然ではないと判断するのである。当然、このある結果が偶然生じる可能性=有意水準=危険率はゼロに近いほど、この結果は偶然ではなく、ある条件の違いによって生じたと確信を持って主張できる。これは社会科学だけではなく自然科学にも共通する科学のルールである。」(山岡 2019、p.173)
p値声明は2016年に出されたものですが、「5%閾値」というハウツーが2016年以降,学術界全体でどれだけ減ったのか,どれぐらい利用されているのかは、私のほうではデータを取っていないので分かりません。5%閾値が批判されたのは2016年p値声明が最初ではありませんが、多くの人には「新説」だと感じられているのかもしれません。また,p値声明のあと、日本でも2017年統計関連学会連合大会にて、日本計量生物学会と日本計算機統計学会がp値についての企画セッションを行いましたが、単純な意見には統一されなかったと私は記憶しています(日本の心理学関係でも議論されていると思いますが、そちらは追えていません)。
以上です。
最後のほうの統計関連学会連合大会の話についてはまた聞き、伝聞ですので、差し引いてお読みください。
ネットでご参照いただける範囲で捕捉します。私自身の大数の法則の理解は、〈1回の試行で,ある事象の起こる確率がpであるとき,この試行を独立にn回繰り返したとき,この事象が起こる回数をfとすると,これが起こる割合f/nは試行回数nが大きくなるに従ってpに近づく〉(百科辞典マイペディア)というものに近く、【試行が独立に】なされていなければなりません。wikipediaには「たとえばサイコロを振り、出た目を記録することを考える。このような試行を厖大に繰り返せば、出た目の平均(標本平均)が出る目の平均である 3.5 の近傍から外れる確率をいくらでも小さくできる。これは大数の法則から導かれる帰結の典型例である。より一般に、大数の法則は「独立同分布に従う可積分な確率変数列の標本平均は平均に収束する」と述べている。」とあります。問題は山岡重行氏が自らの議論を正当化するに際して、この試行の独立性の意味を理解されているようにはみえないということです。事象を「人間の数?」とする表記も初めて目にしたものです。そこで山岡氏のサンプリング理解にも論点が及んでくるわけです。
>サイト趣意
ご理解いただきありがとうございます。
>大数の法則
私の大数の法則の理解も、北田先生が最後のコメントで引用しているものと相違ありませんでした。
返信を読み、「大数の法則の説明として理解できる」から「もしかしたらおかしいところがあるかも知れない(とはいえまだ理解できる)」に印象が変わりました。
試行の独立性や人間における誤差などには理解が及んでおらず、現時点での私の知識ではこれ以上厳密な検討は行えそうにありません。
>有意性
コメントの趣旨を一部誤解しておりました。
「これは社会科学だけではなく自然科学にも共通する科学のルールである」という部分が、必ずしもそう断定できるものではないことを理解しました。
重ね重ね、コメント頂きありがとうございました。
私は普段ちゃらんぽらんな生活を送る一文系大学生ですので、このような専門性の高いやりとりは貴重な経験となりました。